赤染晶子さんの『乙女の密告』を読んだ。
赤染さんの『乙女の密告』。
京都の外大でスピーチコンテストに向けて、練習をつづける乙女たちが主人公の小説。
第二次大戦の頃の頃、アンネ・フランクは親愛なるキティーに向けて、ナチスによるユダヤ人逮捕に怯える日々を手紙形式で日記として綴った。
乙女たちの朗読するテキストは『アンネ・フランクの日記』である。
もともとスピーチとはみずからの身体を通して、他者の言葉を声にだすという行為を差している。(あるいはみずからの過去に書いた言葉を声に出す。)
それらが審査というかたちで一定の評価基準をもうけられることによって、身体にしばりをあたえるという行為はナチスの収容所のように数字で人間を管理する行為と似ているのではないかと思った。
そして乙女たちは、いや麗子様という登場人物はスピーチ中にアンネの日記を忘却することを恐れない。忘却することによって新しい言葉に出会うことに期待をする。バッハマン教授においても、忘れてはならないのはアンネ・フランクの名前だけで、あとは忘れてもかまわないとみか子を慰めている。
意識された思考と、身体から発せられる思考において、この作品は後者の方を評価しているのではないかと思った。物語のクライマックスで、みか子がアンネ自身がアンネを密告しているという事実を発見するのはスピーチ中の忘却という身体を通してである。
ただ『アンネ・フランクの日記』が題材に使われたことの理由を探るなら、アンネはオランダ人になりたいと言いながらも決してみずからの名前をつづることを忘れなかったことに注目をしておきたい。これは習慣化された身体からの思考が、最後までナチスに支配されなかった。恐怖に負けなかったという事実を示しているのではないかと思った。
ということを昨日、『乙女の密告』の読書会で言った。
帰りにダル食堂というところですき焼きを食べた。
お肉がおいしかった。外食がいい。この暑さでは、家でつくる気になれない。
なにかいいところがあれば、食事も外注化しようかなぁと思う。
宅配弁当とかありかも。